スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

北九州の軍艦島【津村島】

新門司港。

IMG_2570.jpg

関門海峡に面する方を表とし、その反対に周防灘に面するこの一帯を、古くから裏門司と呼ばれていたが、埋め立てにより「新門司」と呼ばれるようになった。

国内各所を結ぶ旅客フェリーターミナルを中心とし、多くの企業の倉庫や配送センターが集中する、いわば北九州の海の玄関口だ。



そんな新門司港の一角に、ある島が姿そのまま残されている場所がある。

【津村島(つむらしま)】だ。

地図を見てわかるように、自然な島の形こそそのままだが、周囲は島を避けるように人工的に埋め立てられ、あたかも島を守っているかのようだ。
元々は今津の海岸より1kmほどの海上に浮かぶ離島であったが、徐々に埋め立てが進み、現在の姿に至っている。

人は住んでおらず、人工の埋立地の中、古くからの自然の残る唯一の場所だ。

IMG_8607_20170217232515777.jpg

IMG_2535.jpg

島のほとんどは岩石でできているようで、木々が茂るなか大きな岩も顔を出し、この島の特徴を捉えている。

津村島は石灰石でできている。

先ほど「人は住んでいない」と書いたが、案内板によるとかつてこの小さな島にはピーク時に39戸200名ほどが暮らしていたと言う。
遠くは広島から移住してきた者もいたというが、その全てが石灰石を採掘したり石灰石を焼くことを生業としていたのだったのだ。

もちろんその頃は埋め立てはされておらず、船に乗ってこの島へと移り住んできた。

長崎の軍艦島(端島)は石炭採掘で賑わい、一時は世界最大の人口密度とも言われ、立ち並ぶ高層マンションから遠目での島の姿が軍艦に見えたことから軍艦島と呼ばれているが、ここ津村島はその姿こそ違えど、周囲を数分で回れてしまうほどの小さな島に200人が暮らす集落があったのだ。

石灰石採掘の歴史は古く明治40年代にさかのぼる。
明治は1912(明治45年)で大正元年に年号が変わっているぞ(豆知識だ!)

近代化が進むにつれ建築でコンクリートが使われるようになって石灰石の需要が増えたのだろう。
平尾台や恒見、海を挟んで山口県の小野田などもそうだが、この一帯は石灰石が豊富に採れる地域だったのだ。
石炭は黒いダイヤ、石灰は白いダイヤと呼ばれ大変重宝されたのだ。

その後津村島は盛んに石灰石の採掘が行われた。
大手のセメント会社がこの島に工場を建てたいと交渉したが、地域の人たちとの話がまとまらず実現はしなかった。
その後需要の減少により、いつごろからか人が去ってゆきまた静かな無人島に戻ったのだ。




島の東側は大きな池になっている。

IMG_2549.jpg

ここは石灰石の採掘場跡で、人々が去った後、地中へと掘った穴に海水が流れ込んで池になってしまった。
露天掘りだったのだろうか、濃い水の色からその深さが伺える。

IMG_2550.jpg

中央部には小島があり、多種の鳥たちが羽を休めている。
採石が盛んだった頃はダイナマイトによる発破音で、鳥たちも穏やかであったとは思い難いぞ。




IMG_8614.jpg

北側には唯一埋立地と繋がる道があるが、元々は島に作られた防波堤であり、ここに船を係留し島へと上陸していた。

IMG_2563.jpg

下部の古いコンクリートがかつての防波堤で、その上に新しく島へと渡る連絡通路が作られているのがわかる。

IMG_2574.jpg

連絡通路が作られる際、ここにあった係船柱(船を繋ぎ止めておくための柱)は移設され保存されている。
写真では草に覆われているが、石を削って作られた糸巻き状の柱だ。

IMG_2571.jpg

連絡通路とは言ったが、この島への許可なくの上陸は禁止されている。
かつては人が暮らしたとはいえ、今となっては危険な箇所も多いためだ。

しかしこのような通路が設置されているのには訳がある。
基本的には島の保守管理用だろうが、もうひとつはここに今もある神社のためだろう。

石灰石の採掘が先か、神社が先かは定かではないが、古くからの言い伝えでは、この島自体がたいそう美しい女神様であり、それにまつわる神話もあるようだ。
詳しくは地域の子供たちが挿絵を描いた案内板が現地にあるので、ぜひ赴いてほしい。
この近辺の島の神様同士が津村島の女神様を巡って結構修羅場っている恋の争いのお話だ!

現在も毎年10月1日、2日の2日間で祭りが行われているという。
その神事のためでもあるのかもしれない。


ゲートと埋立地のフェンスの間に隙間が。。。
どれ、その先にいる釣り人に今日の釣果でも聞きに言ってみようか。。。

IMG_2564.jpg

埋立地から海越しに鳥居が見える。

【津村明神社】だ。
いつ頃から祀られているかはわからないが、採掘で賑わった頃は、ここに住む者が作業の安全を祈ったことだろう。
鳥居の先には階段があり、登った先に拝殿があるという。

近くまで行くことができれば鳥居の設立年がわかるのだろうが、何度も言うが島内は立ち入り禁止だ。
平気で上陸してる釣り人もいるけど(ルールは守ろう)

IMG_8629.jpg

こうなるとドローンで空撮?
なんて言うのが現代っぽいのだけど、沖には北九州空港もあるため禁止されているぞ。

まだ島内に立ち入れた頃だろうか?Youtubeに島内の動画もあるので興味のある方は探してみては。

IMG_2554.jpg

明治期には想像もつかなかったであろう大きなフェリーが朝夕入出港する新門司。

周囲は緑地公園として整備されているものの人影は少なく、埋立地の端で鳥の楽園となっている【津村島】

人々が夢を見た白いダイヤも今は昔、神宿るこの島は自然に還っている。
スポンサーサイト

せせらぎと赤煉瓦の橋【九州鉄道茶屋町橋梁】

_MG_5314.jpg

北九州市八幡東区槻田川(つきたがわ)

猪倉(いのくら)地区の山中を源流とした小川は、やがて板櫃川と合流し、市内をゆるやかに流れやがて海へと注ぐ清流だ。

上流にはホタルも生息し、板櫃川と合流するまで住宅地の間をさらさらと流れている。

_MG_5316_201503182323308ed.jpg
(個人的な話だが、Takaは幼いころ上流に住んでいて祖父に手を取られ川沿いをよく歩いたものだ)

_MG_5383.jpg

その流れが板櫃川と合流する少し手前、八幡東区茶屋町(ちゃやまち)に、大きな赤煉瓦の建造物が姿を表す。

_MG_5380.jpg

【九州鉄道茶屋町橋梁(きゅうしゅうてつどう ちゃやまちきょうりょう)】だ。

「九州鉄道」とは1887年(明治20年)から1907年(明治40年)に存在した鉄道会社で、九州初の鉄道路線を敷設した、言わば九州の鉄道の起源だ。

1906年(明治39年)鉄道国有法が施行され、翌年に会社自体は解散することになった。

詳しい沿革は省略するが、1891年(明治24年)には当時の門司駅(現門司港駅)から熊本駅までがレールで繋がった。

現在の路線はほぼその当時のルートを走っていて、ちょっとしたところに赤煉瓦のアーチなどが今でも現役で使われている。


しかし、この槻田川を跨ぐ茶屋町橋梁の周りを見渡してみても鉄道の気配はない。

_MG_5400.jpg




少し話はそれて、鹿児島本線を小倉駅から順に黒崎駅まで鈍行列車の旅をしてみよう。

小倉駅→西小倉駅→九州工大前駅→戸畑駅→枝光駅→スペースワールド駅→八幡駅→黒崎駅
(どこからか鉄道唱歌が聞こえてきた君はきっと鉄っちゃんだ!)

概ね海側の路線だが、このルートは1902年(明治35年)に開業、つまり先述の門司→熊本間が開通した1891年(明治24年)には存在していなかった。

では、どこを通っていたか?

それが今回の【九州鉄道茶屋町橋梁】で紐解くことができる。




1891年(明治24年)、小倉→黒崎間は海側でなく、山側に線路が敷設された。
これは当時の陸軍が海側からの敵艦による艦砲射撃による被害を防ぐために、開業にあたってこのルートを条件にしたと言う。

現在のランドマークを元に簡単にルートを説明すると、小倉駅からは南西にカーブを描き、九州歯科大から西へと進路を変える。
到津の森公園の南側を通ると、今回の【茶屋町橋梁】を渡り、大蔵から八幡東警察署、桃園公園を抜け、黒崎駅へと至る。

今の戸畑側を回るルートに比べると、確かに海側を大きく逸れていることがわかる。

小倉駅からは現在の大蔵公園にあった大蔵駅を経由し、黒崎駅に至っていた。

この山側を通る、小倉駅→大蔵駅→黒崎駅のルートは1908年(明治41年)に【大蔵線(おおくらせん)】と呼ばれる事となる。

奇しくも開業時には陸軍の意向で山側に敷設されたルートは、新たに敷設された海側ルートに主役を奪われ、1911年(明治44年)に廃止されることとなる。

わずか20年。

その間には、1901年(明治34年)の官営八幡製鉄所の操業開始など、激動の時代であったことは言うまでもない。




廃止から100年以上の年月が経った大蔵線の遺構は少しだが遺っていて、この【茶屋町橋梁】は最大の遺構だ。

IMG_5111.jpg

目を引く美しき赤煉瓦の橋梁は、北九州市の市史跡に指定され、修復こそしてあるものの損壊も少なく状態は良好。

_MG_5337.jpg

付近は緑化公園になっていて、季節の植物を愛でながらゆっくりとした時間が流れる。

_MG_5368.jpg

この橋梁、川の上流側と下流側ではその表情が異なる。

_MG_5370.jpg
上流側

IMG_5103.jpg
下流側

下流側には特徴的な煉瓦の凹凸がある事がわかるだろう。

これは下駄っ歯と呼ばれ、デザイン的に美しいため設計者の装飾的意匠だとも言われてきたが、近年では将来的に複線化する際の煉瓦の継ぎ足し部だと言われている。

開業時は単線の大蔵線だが、将来複線化する時がくれば、この凸凹部に煉瓦を”噛ませて”強度を上げる目的だった。

将来の繁栄を、と思えばなんとも皮肉ではあるが、結果この【茶屋町橋梁】を印象付けるデザインとなっている。

_MG_5373.jpg




_MG_5363.jpg

煉瓦橋梁にはよく見受けられる、上流側の御影石の補強。
川の流れで煉瓦を浸食させないための工夫だろう。

_MG_5352.jpg

事実多くの被害が出た水害の際にも、この橋はびくともしなかった。

_MG_5355.jpg
せり元と呼ばれる部分。力学的にアーチのバランスを保っているらしい。
(難しい事は理解不能(笑))

_MG_5369.jpg

煉瓦をよく観察すると、長手側に刻印のあるものが存在する。
いくつか種類があるようだが、写真ではカタカナの「ハ」漢字の「二」だと思われる。

少なくとも煉瓦は国産を使われていたという事だろう。


サイドはコンクリートで慣らされている。
_MG_5334.jpg
小倉駅側

_MG_5345.jpg
黒崎駅側

黒崎駅側にはなにやらコンクリートで一部だがアーチが描かれている。
これは昭和40年代の後半まで歩道橋として利用されていた頃の名残で、当時はこの煉瓦橋梁にコンクリート製の階段と欄干が設置され、誰でも自由に渡ることができたと言う。

ここではその写真は記載できないが、当時の写真を見ると実に興味深い。

1976年(昭和51年)北九州市の市史跡に指定されたのを機に当時の姿に復元されたのだろう。

IMG_5112.jpg

_MG_5434.jpg

_MG_5421.jpg

_MG_5413.jpg

IMG_5131.jpg

わずか20年ほどしか列車の走ることのなかった大蔵線だが、100年以上過ぎた今も遺る煉瓦遺構である【茶屋町橋梁】

_MG_5405.jpg

堂々とした佇まいは、九州の鉄道の起源ここにあり!と伝え続けている。


北九州の水道のはじまりどころ【小森江貯水池】

IMG_2203.jpg

北九州市門司区小森江(こもりえ)

風師山・矢筈山の麓に位置する「小森江子供のもり公園」は、みどり豊かな広い憩いの場だ。

【矢筈堡塁】へと向かう登山道の途中にあるこの公園は、草スライダーなどがあり、休日ともなれば子供たちの声がこだまする。

のどかな緑の景色に佇むのはなんと、巨大な赤煉瓦の塔だった。

IMG_2213.jpg

【小森江貯水池取水塔(こもりえちょすいち しゅすいとう)】だ。

取水塔、とは文字通り水を取る塔。

IMG_2211.jpg

しかし見る限り、貯水池とは言っても下部には小さな池があるだけでとてもこんな大きな設備が必要とは思えない。

それもそのはず、この塔はかつてはそのほとんどが水の中にあったのだ。

ここは1973年(昭和48年)に廃止された【小森江貯水池(こもりえちょすいち)】跡だ。

この公園を高い所から見ると、大きな窪地になっているのがわかる。
さきほどの草スライダーも実はダムの淵を利用した物だったのだ。

IMG_2215.jpg

海側を見ると綺麗に草で被われているが、ここがダムの堰堤だった事がよくわかる。

竣工は1923年(大正12年)。




1911年(明治44年)に北九州で初めて水道が通った。
それを担ったのが【小森江浄水場(こもりえじょうすいじょう)】で、この貯水池跡から少し下流にある。

IMG_2247.jpg

草ぼうぼうだが、取り壊される事無くただただ佇む。

IMG_2252.jpg

こちらも貯水池とともに現在はその役目を終えているが、かつては浄水がどれほど重要だったか。

そもそも土地柄水の利に恵まれなかった門司地区だが、国際港としての門司港の発展、鈴木商店の大里地区の開発による急激な人口増加などにより、水道は必須となった。

さらには不衛生な水による伝染病の流行もあり、浄水は必要に迫られた。

そこで1909年(明治42年)小倉の福智貯水池、門司の小森江浄水場と建設が始まった。

福智貯水池は現在は鱒渕ダムの一部となっているが、そこから延長23kmもの導水管を通り、この小森江浄水場まで運ばれ、水道水として利用された。

さらなる水道需要が高まるにつれ、新たな水源の確保が必要となった際に、福智貯水池と同じく紫川上流の案も出たが、財政上の都合で廃案。

そこで白羽の矢が立ったのが、浄水場から山側に300mほど登った地点の【小森江貯水池】だった。




IMG_2198.jpg

1923年(大正12年)に竣工すると、「門司のおいしい水」として安定した水道を送る事が可能になり、その水は自然と感染病を鎮め、船舶の飲料として詰め込まれ”赤道を越えても腐らない”と評判を得たそうだ。

IMG_2212.jpg

さて、この美しき赤煉瓦造の取水塔。

上部には鉄柵とハシゴが遺っていて、よくよく見てみるとなんとなくだが、色の違いから当時の水位を思い知る事が出来る。

水があった頃なんて想像もできないよーっと思っていたけど、同じく門司区内の【大久保貯水池】に行けば容易だった。

IMG_3247.jpg
ほらそっくり!

1925年(大正14年)、小森江貯水池とほぼ同時期に作られた鈴木商店の事業のひとつである【大里製糖】の工業用水の為に作られた。

方や公共事業、方や民間企業の設備だが非常に似ているのが興味深い。

あるいは技師が同じなのかもしれないし、当時の財閥の影響力も計り知れない。

IMG_2207.jpg
嘘をつくと伸びるかも

塔に見られるぴょこっと出たパイプから取水するのだろうが、大久保貯水池の取水塔にも同じ様なパイプがあり、水位の低い時期に見る事が出来る。

IMG_2217.jpg

IMG_2194.jpg

かつての堰堤を下流側に下ってみると現れるのが暗渠の坑口だ。

IMG_2238.jpg

遊具のある小さな公園の傍らにあるのは、取水塔から取り入れた水の出口。
【小森江貯水池取水暗渠(こもりえちょすいちしゅすいあんきょ)】だ。

もちろん今は使われてないが、かつてはここを通り、下流の小森江浄水場まで自然流下で水が運ばれていた。

IMG_2224.jpg

坑口自体はフェンスにて閉鎖されているが、中を覗けば煉瓦のアーチが。
坑口も含めると3連のアーチが大中小と並んでいる面白い作りだ。

IMG_2230.jpg
要石。

IMG_2227.jpg
イギリス積みだ。

IMG_2229.jpg
コンクリートの洗い出しだろうか。

IMG_2228.jpg
北九州ではおなじみの鉱滓煉瓦も使われていた。

IMG_2226.jpg
扁額には右から読むのだろうけど、○寒泉?・・・?読めん(汗)

きっとたいそう立派な言葉に違いない。

IMG_2235.jpg


北九州の水道の始まりどころ【小森江浄水場】と【小森江貯水池】

蛇口を捻ればとめどなく出て来る水に、今一度感謝の気持ちを。


より大きな地図で 北九州近代化遺産 を表示

刻印煉瓦と【矢筈堡塁】

北九州市門司区矢筈山(やはずやま)

IMG_2185.jpg

Takaの趣味でもある低山トレッキングに来ています。

標高266mの小さな山は気軽に登山を楽しめる山として、地元のお年寄りの散歩コースや、はたまた山ガールの週末登山にも利用される気楽な山だ。
実際に普段着のおばあちゃんとすれ違ってビックリしたぞ!

IMG_2070.jpg

山頂にキャンプ場がある為、通常は門により閉鎖されているが未舗装路ながら車の通れる道もあり、キャンプ客は車で上る事も出来る。

IMG_2187.jpg

つづら折りのゆるやかな山道をのんびり登った山頂が、今日の目的地。

IMG_2092.jpg

眼下には関門海峡。

IMG_2086.jpg

テントを張ってキャンプを楽しむ方。

IMG_2163.jpg

緑に囲まれた良い場所だ。

子供たちの声が響く野外学習の場も、キャンプ場が出来る遥か前、違う面持ちで海峡を見る人々がいた。

IMG_2184.jpg

ここは【矢筈堡塁跡(やはずほるいあと)】だ。

これは以前の記事でも紹介した明治期の戦争遺跡である下関要塞の施設のひとつだ。
に眠る戦争遺跡 【高蔵山堡塁】
再び訪れた【高蔵山堡塁】

竣工は明治20年代頃(1880年代後半から1890年後半まで)とされている。

海峡に迫る艦隊を迎撃するため、設置された数々の下関要塞を結び、防衛線としたのだ。

ここ矢筈堡塁には多数の遺構が今も残り、キャンプ場の一部として保存活用されている。

IMG_2076.jpg

キャンプ場の管理棟の横にあるのは短いトンネル。

映画やドラマのロケにも使われているようで、そのパネル展が行われていた。

IMG_2077.jpg

内部には左右に部屋が設けられている。

IMG_2078.jpg

IMG_2079.jpg

煉瓦作りの内部は概ね白く塗られているが、恐らく調湿作用のある漆喰だろう。

IMG_2080.jpg

このトンネルの為、この堡塁は立体的に行き来出来るようになっているのだ。




IMG_2083.jpg

高蔵堡塁にも見られた半地下の倉庫跡。

IMG_2088.jpg

危険防止の為かコンクリートブロックにて閉鎖されているが、保存状態は良好。




IMG_2081.jpg

IMG_2090.jpg

細い切り通しになっているのがこの矢筈堡塁の最大の特徴とも言える倉庫群だ。

IMG_2108.jpg

その他の下関要塞とほぼ同じ様な作りで、煉瓦はイギリス積み。

IMG_2098.jpg

IMG_2104.jpg

IMG_2103.jpg

まるで時が止まったかの様だ。

IMG_2099.jpg

IMG_2101.jpg

各部屋はキャンプ場が物置や木工場、学習の場として利用している様だ。

IMG_2105.jpg

IMG_2134.jpg

IMG_2114.jpg

高蔵堡塁同様、各部屋は奥で繋がっており、人が行き来していたのだろう。

IMG_2126.jpg




IMG_2117.jpg

IMG_2075.jpg

山の形状をうまく利用しているのか、階段も多数あり。
落葉で滑らないように注意!




IMG_2138.jpg

鋲が打たれた重々しい扉は実は映画の撮影の為に作られたセット。

IMG_2139.jpg

そこから地下に下ると、部屋が一つ。

IMG_2142.jpg

この壕だけ他とは違う雰囲気を醸し出していたが、どう使われていたかは不明。

IMG_2146.jpg

ここも漆喰を塗られているが、煉瓦はイギリス積。
この辺りからあるモノを探すため、煉瓦 をひとつひとつ見て回っていた。

そんなもんだから目前に迫る巨大ゲジゲジに何度もぎゃー!って叫ぶ事になる(汗)

IMG_2149.jpg
自主規制だ!

IMG_2152.jpg

重厚な花崗岩の階段だ。




IMG_2084.jpg

IMG_2085.jpg

各所に見られるこの胸の高さ程の壁とくぼみは、胸墻(きょうしょう)胸壁(きょうへき)等と呼ばれる物で、砲弾を避けつつ胸より上を出し、監視や攻撃の為に作られた物だ。

キャンプ場建設の為に取り壊された部分も多いらしい。

100年を越す今となっては木々に被われ見通しは悪いが、当時としては海峡側、裏門司側の見晴らしの良い場所に置かれていたのだろう。

IMG_2177.jpg
こう言った感じかしら。の自撮りイメージ。




結局探していた物は見つけられず、キャンプ場の管理人さんに尋ねるとすぐに教えてくれた。

IMG_2164.jpg

それは藤棚の設置された海峡を見晴らせる場所にある胸壁にあった。
完全に見落としてた

IMG_2157.jpg

【いよみつ の刻印煉瓦】だ。

北九州内に遺る明治期の煉瓦建築などを見ると、八幡の九州鉄道大蔵線跡の煉瓦橋梁に遺る刻印があるが、この”いよみつ””イヨミツ”の刻印が一番有名ではないだろうか。

IMG_3146.jpg

IMG_2162.jpg

IMG_2159.jpg

IMG_2160.jpg

IMG_2155.jpg

ご覧の通りいくつかのバリエーションがある。

管理人さんに聞くには、”いよみつ”を意味する物は伊予の三津浜。

すなわち現在の愛媛県松山市あたりで作られた煉瓦ではないかと言う事だ。

この当時輸入煉瓦が多かったらしいが、少なくともこの矢筈堡塁には国産煉瓦が使われていたと言う証拠だ。

しかし謎も残る。

なぜ、この胸壁にだけ刻印煉瓦が使われているのか。
他の胸壁に確認する事はできず、ここにだけ集中して使われていた。

設置時期が違うとか、製造元がちょっぴりCMアピールしちゃったとか仮説は尽きない。




管理人さんは親切で、その他の遺構も僕一人の為に巡って説明をしてくれた。

意外と見逃している物や、説明を聞いて納得する物もあり、非常に勉強になりました。
以下はあくまで仮説や管理人さんの考えである事を承知願いたい。

IMG_2169.jpg

砲座跡。

煉瓦積みの手前にあるのは、連続して砲弾を発射した際に熱くなった砲身を冷やす為のプール跡だと言う。
軍艦が激しい海戦の際に、海水で真っ赤に焼けた砲身を冷やしたと言う話を聞いた事があるので、理にかなっている。

IMG_2173.jpg

その後ろにある扇状の部位は砲台を動かす為のレールがあったのでは、と。
重い大砲を動かす為に車輪やレールがあると言うのは自然だ。
事実、別の要塞にそのような機構があった事を証明する資料もあると言う事だ。




IMG_2175.jpg

コンクリートの基礎跡。

IMG_2174.jpg

よく見ると鉄筋も確認出来る。

何かしらの小屋の様な物が建っていたのでは?との事。




IMG_2179.jpg

先ほどのトンネルを抜けてすぐにあるのは砲座跡。

IMG_2178.jpg

よく見るとヒトデの様な五角形のコンクリートの基礎。

細かい溝も掘られているが、どのように使われていたのかは想像もできない。

しかし重要な位置づけだったのでは無いだろうか。

IMG_2181.jpg




下関要塞は海峡からの侵攻を防御する為に作られたが、時代が変わり航空機が主流になると、別の場所に高射砲陣地が構えられ、太平洋戦争終戦までこの矢筈堡塁は実際に火を放つ事はなかった。

現在ではキャンプ場として、野外学習の場として平和利用されている。

しかし明治期の戦争遺跡は、響き渡る子供たちの笑い声に、かつての戦争の事実を、そして平和を知る事を伝えようとしているのだ。


より大きな地図で 北九州近代化遺産 を表示

桜の散る【養福寺貯水池】

湖に浮かぶ西洋の古城【養福寺貯水池】の記事で訪れたのが、2012年。

北九州市八幡西区養福寺にある、官営八幡製鐵所の水道施設である【養福寺貯水池(ようふくじちょすいち)】に2014年春、また訪れた。

前回は家族連れてのお花見を「口実」に見回ったのだが、今年はひとりで赴いた。

しかし時間の都合上あまり回れなかったのだが、そもそも河内貯水池に比べコンパクトな、ここ養福寺貯水池。

前回見られなかった場所をさらりと見て来たのだ。

IMG_1893.jpg
年に一度、花見シーズンにわずかな期間だけ開放される。
事前告知もされないので、ここだッ!って時に赴く他ないのが悩みのタネ。
ツイッターなんかで情報収集するのがよさそうだけど、やっぱり急な調整になっちゃうのが、ここ養福寺貯水池。

関東から日帰り弾丸でやってくる方もいらっしゃるのだ(笑)

IMG_1894.jpg
さて、行ってみよう。

フェンスに囲まれた貯水池だが、入口は数カ所ある。
正面入口と言って良さそうなのがこの階段。

もうすでに八幡製鐵所の土木技師であった沼田尚徳技師の美的センスが伺われる。

IMG_1956.jpg

びっしりと貼られた石が、人造でありながらも自然と調和する様な出で立ちだ。

IMG_1960.jpg

意匠と思われる穴の開いた部分には、見えない所まで同じく石が貼られていた。

細部にまで妥協が無い。

IMG_1896.jpg

コンクリート製ながら、周囲の側溝も優雅さすら感じる。

IMG_1902.jpg

通常一般の人が立ち入る事が出来ないため、整備されていない。
しかし落葉と相まってさらにその趣を増しているかの様だ。

写真では見えにくいが、歩道の脇には同じく石貼りの溝が続いている。

IMG_1908.jpg
トンネル周りは切り石積み。

IMG_1912.jpg

IMG_1909.jpg
その排水路(?)に架かる小さなコンクリート製の橋。
いっちょまえにアーチ状欄干と花崗岩の柱を備える。
この橋にもに側溝があり。

IMG_1910.jpg
なんと言って良いものか解らないが、これも排水路だろうか。
滑り台にしてはおしりが痛くなる。

IMG_1906.jpg
この辺りの木々の隙間から見えたのが、堰堤下部の減勢池。
こちらにもラッパ状の導水管?
もしかしたら先ほどのトンネルに続くグローリーホール(洪水吐き)かもしれない。

IMG_1938.jpg

IMG_1918.jpg
監視塔も変わらず。

IMG_1948.jpg
ただ今回残念だった事が、堰堤沿いを降りてゆく道がロープによって封鎖されていた事だ。

結構メインイベントなんだけどねぇ。


IMG_1928.jpg

IMG_1930.jpg
堰堤上部、調整池の余水吐き(洪水吐き)も美しい石積み。

ラッパ状の遠賀川から引かれた水の出口も見える。

IMG_1919.jpg
前回写真が撮れなかった余水吐きからの水路を跨ぐ石橋。

IMG_1927.jpg
勇気を出してへっぴり腰で全景を撮る。

IMG_1925.jpg
よく見ると、石積みに煉瓦のアーチである事が解る。
要石もあり、自然石の装飾が見事だ!


IMG_1923.jpg

IMG_1953.jpg

IMG_1965.jpg

いつも感じる事だが、近代化遺産と呼ばれる物は歳月がたっても美しい。
それは人工物ながら自然と喧嘩せず調和出来ているからだろう。

現代建築も素晴らしいが、特にこの沼田技師の手掛けた【養福寺貯水池】には”自然の美しさ”すら感じるのだ。

また桜の咲く頃に。


より大きな地図で 北九州近代化遺産 を表示

あわせてお読み下さい。
湖に浮かぶ西洋の古城【養福寺貯水池】

汽笛を鳴らし勾配に臨め!【呼野のスイッチバック】

北九州市小倉南区呼野(よぶの)

IMG_1807.jpg

広大なカルストを讃える平尾台(ひらおだい)と福智山系の谷にあたる地域だ。

谷間を縫うように走る路線は【日田彦山線(ひたひこさんせん)】

筑豊地区の石炭や石灰石を運ぶために東小倉ー上添田間が1915年(大正4年)に小倉鉄道添田線として開業した。

その後鉄道会社や路線名を変えながら、現在の日田彦山線として北九州市小倉南区城野(じょうの)駅を起点に、田川を経由し、久大本線と接続する大分県日田市の夜明(よあけ)駅までの単線非電化区間だ。


その長閑で歴史のある車窓は、まさにローカル線の風情を持つ素敵な路線だ。
個人的には観光SLの運行を期待したい!

訪れたのは平尾台の石灰石を産出する、鉱山の麓に位置するのが日田彦山線【呼野駅】だ。

IMG_1772.jpg
「よぶの」って書いてるのよ。

利用客は減少の一途を辿り、現在の乗車人員は一日平均100人にも満たない、駅舎も無い無人駅だ。

IMG_1759.jpg

上下線共に1時間に1~2本程度の列車はディーゼル車。

IMG_1765.jpg

静かな谷間にディーゼルエンジンのパワフルな唸りをあげて列車がやってきまキハ。

非電化区間である事と、勾配の多い路線なのでディーゼル車が活躍しているよ。

石炭採掘が盛んだった頃には、長い長い貨車を従えた貨物列車が行き交っていたと言う。

ディーゼル車以前は蒸気機関車がドラフト音を高らかに走っていたと思うと感慨深い。
ドラフト音=シュシュポッポって音

IMG_1728.jpg

しかしながら、呼野駅に一旦停車した蒸気機関車は、次の採銅所(さいどうしょ)駅へ向かう上り勾配に臨むには重くパワーが足りないため、途中停止してしまう恐れがあった。

呼野駅を停止せず通過する場合には、石原町駅方面よりの十分な助走がある為、難なく登り切る事が出来たのだが。

それを回避する為に作られたのがここ呼野駅に遺る福岡県唯一の設備だ。


より大きな地図で 北九州近代化遺産 を表示

航空写真を見ると、西側山手にカーブを描く短い築堤が確認出来る。
さぁ、行ってみましょう。

IMG_1652.jpg

築堤の法面を登ってみると、雑草が茂りながらも、その緩やかなカーブから連想出来るもの。

よくよく見ると・・・

IMG_1658.jpg

レールが遺ってる!

そう、ここは「かつて」線路があった。

1983年(昭和58年)に廃止された【呼野のスイッチバック】だ。

スイッチバックとは、そもそも急勾配に弱い列車が傾斜を登る為に設置され、前進・後退を繰り返しながらつづら折りに登って行く機構を指す。


より大きな地図で 北九州近代化遺産 を表示

↑有名な熊本は豊肥本線、立野のスイッチバック。

地図上で見るとそれが勾配だとは解りづらいが、地図左手熊本方面より侵入して来た列車は、立野駅で一旦停車。
そこから後進にて左手上部へと登る。
登り切った所で一旦停止し、方向を変え前進して右手上部大分方面へと走ってゆく。

ざっくりとした説明だけど解ってもらえた??


ここ呼野駅にはそんなつづら折りの様相ではないが、確かにスイッチバック線があったのだ。

小倉方面より走って来た蒸気機関車は、呼野駅のスイッチバック線専用ホームに一旦停車する。
そしてこの築堤(引き上げ線)を後進にてゆっくり登る。

端部まで登るとそこから加速して全速前進、金辺トンネル方面の上り勾配に臨む、と言う訳だ。

100m進むに1m~1.7m登る程度の勾配であったと言うが、そもそも勾配に弱い鉄道と、重い貨車を引いた列車には厳しい物だったのだ。

IMG_1650.jpg


山手側端部のレールの上に枕木が置かれていてその先は森となっているので、ここがスイッチバック線の行き止まり。

IMG_1654.jpg

IMG_1649_20140330134753e58.jpg

端部より呼野駅側に進んで行くと、レールが途切れた。

IMG_1675.jpg

どうやらここから呼野駅方面にはレールは遺ってない様だ。

雑草が茂る季節を避けての初春の訪問だったが、ご覧のように半分以上埋もれている状態だった。

しかし、見える範囲でよくよく観察してみるといろんな発見があった。

IMG_1657.jpg
レールを枕木に固定する為の”犬釘(いぬくぎ)”

IMG_1662.jpg
連結ボルトもたまりませんな!

IMG_1670.jpg
枕木の真ん中に打たれた表示クギと呼ばれる刻印付きの釘。
木製枕木の管理の為に、刻印で製造年やなんかが解るようになってるらしいが、「5S」と読めるこの刻印の意味は解らなかった。でも珍しい物だね。

そんで、今回ビックリしたモノ。
IMG_1661.jpg
「KTK」と刻印されている。
恐らくこれはこのレールを発注した事業者が「九州鉄道」あるいは「小倉鉄道」である事を物語っている。
"Kyusyu Tetsudou Kabushikigaisya"あるいは""Kokura Tetsudou Kabushikigaisya"の頭文字

この路線を九州鉄道が管轄だった時期が1901年(明治34年)から鉄道国有化の1907年(明治40年)と考えると、明治期のレール!??

小倉鉄道であったと仮定すると1915年(大正4年)から1943年(昭和18年)が管轄。

このスイッチバック線が1983年(昭和58年)に廃止されるまで交換されないまま使われていたのだろうか?
藪の中をもっとじっくり調べれば新たな発見もありそうだが・・・うーん、どうなんだろう。

IMG_1648.jpg

列車が走っていた名残はこの右カーブにもある。

IMG_1666.jpg

レールの写真下側が丸くなっているのが解るだろうか?

実際に触れてみるとよく解るのだが、右カーブの線路の左側レールの内側(こんな言い方で解るんかい(笑))
車輪の脱線防止のフランジが遠心力で触れる部分が削れて丸くなっている。

触れて感じる事が出来るかつて列車が走った名残だ。

IMG_1679.jpg

呼野駅側にさらに進むと笹薮に阻まれこれ以上は進めなくなった。

日田彦山線が見えるが、大きく逸れた端部から接続地点まで大分近くなって来た。

一旦法面を降りてみよう。

IMG_1645.jpg
築堤のある所暗渠あり。
立派な石積みの水路だ!

IMG_1751.jpg
ちょうど先ほどのレールの途切れる位置はこんな高さのある石積みの鉄橋だった。
この先には田畑と神社があり、その為に作られたのだろう。

IMG_1690.jpg
立派な煉瓦アーチも現存する。

IMG_1691.jpg
水路と歩道の細いトンネルだ。

IMG_1697.jpg
これは日田彦山線と共用しているため長ーいぞ。

IMG_1694.jpg
途中不自然な煉瓦の継ぎ目がある。

日田彦山線は現在も単線だが、敷設時は複線を想定して作られていたのは有名な話。
もしかして後から継ぎ足したのだろうか?詳細は不明。

IMG_1710.jpg
誰だい?犬釘こんな所に刺した子は!

IMG_1711.jpg

IMG_1746.jpg

さて、ぐるりと回って、先ほどの築堤上の笹薮の反対側に出てみる。

IMG_1739.jpg
本線との高低差もなくなり、接続地点が近くなっているのが解る。

IMG_1726.jpg
先には呼野駅。左手がかつてのスイッチバック線専用ホーム跡。

IMG_1720.jpg
線路跡は桜並木になっている。

IMG_1721.jpg

IMG_1736.jpg
バラストと信号かなにかの基礎が遺っていた。

このスイッチバック線を蒸気機関車がいざ進めと迫って来ていたのだ。

IMG_1761_201403301519307eb.jpg

最後に呼野駅。

IMG_1756.jpg
現役ホームの傍らには長らく使われていなさそうな留置線があり、さらに写真右手にあるレールの無い空き地がスイッチバック専用ホーム跡だ。

IMG_1755.jpg

IMG_1773.jpg
コンクリート製のホーム自体は1960年(昭和35年)12月の竣工の様だ。


蒸気機関車が廃止され、スイッチバックを必要としないパワフルなディーゼル車が台頭し始める頃には、筑豊の炭田も閉山され、かつては貨車を長く従えた貨物列車もすっかり短くなってしまった。

晩年は一部の列車のみがスイッチバック線に入線していて、ほとんどは呼野駅に停車した後、そのまま採銅所方面へと走って行っていた。

そしてスイッチバック線は1983年(昭和58年)その役目を終える。

IMG_1771.jpg

かつての鉄道運行の難所は、今や昔。

今日も轟音を響かせながらディーゼル車が走って行くのだ。


より大きな地図で 北九州近代化遺産 を表示

歴史は今日も進行中【2013→2014】

IMG_0756.jpg


今年も残る所僅かとなりました。

更新が滞っておりますのはどうぞ御勘弁下さい(苦笑)


_MG_5724_2013123001114070c.jpg


趣味のひとつである近代化遺産巡りを記録として残そうと立ち上げたこのブログですが、おかげさまで「いいね!」と言ってくれる方もいたり、北九州の近代化遺産に興味があり、検索エンジンでひっかかってこちらのブログを閲覧してくれる方もいたりで、それも励みとなり楽しく運営出来ました。


_MG_5739.jpg


何よりこのブログを通じてお知り合いになれた方々、交流出来た事が得た物で一番大きいのです。

おかげさまで本業もプライベートも多忙につき、なかなか近代化遺産巡りが出来ない状況ではありますが、個人的にももっと追求してみたい北九州に残るたくさんの遺構を、2014年も紹介して行けたらと思っています。


_MG_5729.jpg


2013年はどうもありがとうございました!!


0哩 ゼロマイル 〜北九州の近代化遺産〜
管理人 Taka



写真はすべて1914年(大正3年)竣工の【門司港駅】
現在は長期工事中。工事完了は2018年3月の予定。

歴史を撚る【旧東京製綱小倉工場事務所棟】

小倉北区長浜。

_MG_0511.jpg

国道199号線を都心部から外れ、海岸線特有の工業地帯に変わろうとする通り沿いにそれは存在する。

_MG_0679.jpg

【旧東京製綱小倉工場事務所棟(とうきょうせいこうこくらこうじょうじむしょとう)】だ。

1906年(明治39年)竣工のこの赤煉瓦造の建物、現在は金型部品メーカーの敷地内にあり、塀越しに建物を見る事は出来る物の、一般公開はされていない。

現在は使われておらず、ほぼ廃墟と化している。

それが今回、築100年を越えて、初めて一般公開されたのだ。




まずはこの【旧東京製綱事務所棟】の歴史について紐解いてみよう。

「製綱(せいこう)」の”こう”は「綱(つな)」、つまりワイヤーロープの事だ。

現在も続く【東京製綱】と言う会社は明治の中盤、筑豊地区での採炭が始まりワイヤーロープの需要が高まるにつれ、1906年(明治39年)に北九州に工場を新設する事となった。

これはもちろん筑豊地区に立地的に近いと言う事と、材料である鉄鋼が手に入りやすかったからなのかもしれない。

作られたワイヤーは炭坑でのトロッコの巻き上げや索道(さくどう)と呼ばれるロープウェイやリフトにも用いられ、その需要が大きかった事が容易に想像出来る。

その後、第一次世界大戦には軍需注文が増え、関東大震災の際には関東の工場が大打撃を受けたため、小倉工場に需要が集中し、この頃がこの工場のピークとなった。

エネルギーが石炭から石油へとシフトするにつれ、炭坑の需要が減少、2002年(平成14年)に工場は閉鎖され、現在はこの事務所棟と赤煉瓦の倉庫を残すのみだ。




_MG_0662.jpg


今回公開されたのは、”北九州インスタレーションプロジェクト”主催のアートイベントの為だ。

各部屋にインスタレーションと呼ぶ現代芸術の作品が置かれていたが、アートとして一時的(テンポラリー)なものと言う性質もあるので、ここでは敢えて紹介はしない。

でもなかなか面白かったですよ。




前置きが長くなってしまったが、いよいよ内部へと足を踏み入れる。

_MG_0691_201311230134040db.jpg

左右非対称となる東向きの正面玄関。

ファサードには特徴的なバルコニーが突出している。

IMG_0306.jpg


窓は閉鎖されているが、アイアンの手すりには小鳥の置物?このイベントの為に設置されたか定かではないが、以前は無かった。

イギリス積みの煉瓦が美しさを醸し出している。

入口を入ってすぐには洋館らしく、二階へと続く階段がある。

_MG_0654.jpg

_MG_0647.jpg

_MG_0512.jpg

階段を登ると、壁がはがれ煉瓦が見える所に、先ほどのバルコニーへの閉鎖された窓があった。

_MG_0644.jpg

「青年婦人部休憩室」と書かれたのは一番大きな部屋。
会議室だと言う。

_MG_0601.jpg

_MG_0604.jpg

すんごく緑!なのは窓ガラスに緑のフィルムを張り、緑色のランプを灯している為。アートだねぇ~。

左右対称だが、東西にマントルピース(暖炉)が設置されている。

_MG_0617.jpg
東側

_MG_0619.jpg
西側
フラッシュ炊いたよ、ホワイトバランスの狂うカメラマン泣かせな部屋だ!(笑)

_MG_0556.jpg

外観を見てみると、ちゃんと煉瓦造の煙突がついてるのが解るよね。

_MG_0606.jpg

この部屋の特徴は天井だ。

良い色をした木材で組まれた天井には、シャンデリア取り付け用の台座がある。

かつては迎賓館的な役割もあったのだろうか?華やかだった頃が偲ばれる。




_MG_0585.jpg

一階に転がってたコレ。なんだろう?って思ったけど、外に出て気付いた。

_MG_0527.jpg

ノブと呼ばれる屋根の飾り。

IMG_0302.jpg

台風などで自然と落ちてしまったのだろうか。
絶対「ヤベッ」って思ったよね。

屋根には球状だけでなく、突起状の装飾もあり、デザイン的にこの建物を印象づけている。

_MG_0550.jpg




_MG_0520.jpg

北側にあった「路上観察学会的」増築部のなごり。

まぁ、そこだけでなく、一階窓の周りの鉄格子や二階の窓周りの意匠も注目。

_MG_0521.jpg

_MG_0532.jpg

_MG_0525.jpg

_MG_0559.jpg




事務所棟の他に、同時期に建築された倉庫棟が、現役の倉庫として利用されている。

IMG_0331.jpg

IMG_0334.jpg

これは道路に面している部分もあるので、触れる事も出来るよ。




外見だけにとらわれず、細部も刻んで来た歴史だ。

_MG_0598.jpg

_MG_0594.jpg

_MG_0591.jpg

各所に長い年月の年輪が見え隠れする。

_MG_0495.jpg

_MG_0496.jpg

_MG_0503.jpg

_MG_0522.jpg

_MG_0571.jpg

_MG_0574.jpg

_MG_0576.jpg

_MG_0578.jpg

_MG_0642.jpg

_MG_0656.jpg

まるで時間が止まってしまったかの様だ。

いや、あるいは現在も時を刻んでいるのかもしれない。

_MG_0682.jpg


現在は製鋼工場の事務所棟としての役目は終えているが、この地の変貌を見て来た【旧東京製綱小倉工場事務所棟】
都心から少し足を伸ばせば、明治よりの赤煉瓦の建物が現在も我々を迎えてくれるのだ。


より大きな地図で 北九州近代化遺産 を表示

貴重な写真で解明した【白洲灯台】の謎

_MG_8953_20131025223319ee8.jpg

岩松助左衛門と【白洲灯台】の項で、いくつか解らなかった事が、今回旧岩松家の一般公開を通じて、貴重な写真と、助左衛門の玄孫の方のお話を聞き解明した事がある。




まずはおさらいだが、この写真↓
_MG_4188_20131025223905043.jpg

小倉城内にある白洲灯台のレプリカだが、これは実際には建設されていない。

IMG_9911.jpg
旧岩松家の床の間には陶器製の白洲灯台があるよ。

岩松助左衛門が政府に提案した設計図を基にしている訳だが、海外からの最新の技術が取り込まれつつあった明治初期にはすでに設計が古く、明治政府はイギリス人技師のブラントンに設計を依頼する事になる。

それが貴重な次の写真↓
IMG_9972.jpg

中央左に写っているのがブラントンの設計した木造の【初代白洲灯台】だ。

助左衛門は基礎工事を進めていたが、志半ばにしてこの世を去る。

中央右手に見える石垣が、助左衛門が工事を行っていた基礎の跡だと言う。

IMG_9993_20131025232920215.jpg


その右側の小屋は、灯台守が常駐する小屋だ。
日本では灯台の無人化が進み2006年(平成18年)を最後に全ての灯台守がいなくなった。
豆知識だ!


1873年(明治6年)に初点灯。
石油を炊いて夜通し海上を守っていたと言う。

続いてはおなじみの縞しまの灯台↓
_MG_8924_20131025122536f86.jpg
wikipediaのこの写真はTakaが投稿したぞ。

これは1900年(明治33年)に初代よりやや南側に設置された、現存する【二代目白洲灯台】だ。

下部が石積みで、上部は鉄製の今なお残る丈夫な灯台だ。

縞しま模様は初代が1876年(明治9年)に船の帆と同化しないように塗り分けた物を引き継いだ。




次の写真も貴重な物だ。
IMG_9973.jpg

恐らく戦前から戦後あたりの写真だと思われる。

灯台の傍らに同じピッチで塗り分けられた円柱状の物が見える。

これは謎の鉄の輪っかとして、もしかしたら軍施設の跡?と記事には書いたが、これは元々は石油タンクであった、と言う話だ。

最近ではLEDを用い、電源は太陽光発電でまかなえていると言うが、当時は石油を一晩中炊いていたため、大きなタンクが必要だったと言う訳だ。

不要になり解体され、下部がリング状に残っているのだろう。
写真は一機しか見えないが、リングはふたつあったので、二機タンクがあったのかもしれない。


そして、灯台右手の小屋。

これも前回までは何かは解らなかった、煉瓦の基礎の元の姿だ。

実はこちらが旧日本軍が設置した軍施設だと言う事だ。

確かに照空分隊が置かれていたと言う資料もある。
サーチライトで夜間上空を照らし敵機を探し出す為の物だ。

高射砲隊も置かれていたと言う。
航海の安全を守るはずの灯台の傍らにまで戦争は侵食していたのだ。




今回、新たな発見と非常に貴重なお話を聞く事が出来た。

それでもまだまだ知らない事実や、興味は尽きないものだ。

身近な歴史にこそ、深い深い物語がある事を白洲灯台は改めて教えてくれたのだ。


より大きな地図で 北九州近代化遺産 を表示

最後になりましたが、興味深いお話を伺ったり、貴重な写真の掲載を許可していただいた関係各位に感謝申し上げます。

岩松助左衛門生誕の家跡

_MG_8924_20131025122536f86.jpg

若松沖、響灘に浮かぶ縞しまの灯台【白洲灯台(しらすとうだい)】とその建設に生涯を捧げた【岩松助左衛門(いわまつすけざえもん)】

小倉北区長浜に、岩松助左衛門の生誕の地がある。

IMG_0103_20131025122719a4b.jpg
【岩松助左衛門翁生誕の家跡】

通常は公開されていないのだが、このブログを通じて一般公開が開催されるとのお話を頂いたので、これはチャンスとバイクを走らせた。

IMG_0098_201310251235175f8.jpg

旧街道沿いの面影を残す、長浜・末広エリアのまちづくりの一環として大学の研究室主体でイベントを行っており、その一つとして今回の岩松家の一般公開が実現したとの事。

当日は助左衛門の玄孫の方もいらっしゃって、非常に興味深い話を聞く事ができた。
玄孫(やしゃご)→つまり助左衛門の孫の孫だ!




IMG_9924.jpg

IMG_9938.jpg

玄関正面には立派な獅子の絵が。

IMG_9922.jpg

IMG_9991.jpg

IMG_9979.jpg

IMG_9984.jpg

IMG_9969.jpg

IMG_9920.jpg

IMG_9909.jpg

玄関より右手が居間となり、典型的な町家の作りで所々に凝った意匠も見られる。


居間の奥側、庭に面した場所は応接間だ。

IMG_9987.jpg

IMG_9989.jpg

IMG_9980.jpg

IMG_9919.jpg

床は竹を利用したフローリングで落ち着いた佇まいだ。
貴重な町史が大切に保管されていた。


IMG_9916.jpg

そこから庭を見ると柿の木と奥に土蔵が見える。
中央は厠だろうか?




玄関左手は土間になっている。

IMG_9925.jpg

IMG_9926.jpg

IMG_9940.jpg

IMG_9941.jpg

IMG_9944.jpg

今で言う所のキッチンだ。
かまどや井戸があり、生活感を感じさせる。

この家は今でこそ無人だが、近年までは岩松家の方が暮らしていたのだろう。

IMG_9933.jpg

IMG_9968.jpg

IMG_9937.jpg

IMG_9947.jpg

作りとしては木造二階建て。

IMG_9931.jpg

IMG_9929.jpg

ギシギシと音をたてる急な階段と、古い家屋の匂いは、亡くなった祖父母の家を思い出させた。
二階にこそ登らなかったが、許可をいただいてちらっと覗かせてもらう。
かまぼこ状の天井が気になる所だ。




助左衛門は私財をなげうってまで航海の安全の為、白洲灯台建設に生涯を捧げた。

そこで疑問が残る。

なぜこんな立派な町家が今も残っているのか?

答えは玄孫の方に聞く事にした。

実はこの建物自体が完成したのは助左衛門が亡くなった後の事。
次男である栄吉が建てたと言う。

これまた疑問が。

財産なんて残ってなかったはずなのに?

その答えが興味深い。

栄吉も灯台とは縁が深く、白洲灯台も含め、生涯を各地の灯台で灯台守として働いていたそうだ。

IMG_9993.jpg

そもそも危険な職業である灯台守なので、政府から多額の報酬を受け取る事が出来た。
岬の突端で、あるいは孤島での仕事、お金を使う機会もなく、直接故郷へと送金していたらしい。

それが募り、今も残る立派な家を建てる事が出来たのだ。




IMG_0008.jpg

IMG_9912.jpg

IMG_0003.jpg

IMG_9997.jpg

IMG_9917.jpg

IMG_0007.jpg

土蔵も残る立派な町家、旧岩松家住宅。

子孫の繁栄を助左衛門も喜んでいるに違いない。


より大きな地図で 北九州近代化遺産 を表示

その運命は?【九州鉄道大蔵線両国橋橋梁】

2013年10月12日夕刻。

北九州市八幡東区大蔵。

ふと車で通り過ぎようとした長らく工事中だった橋のたもとに、大きな煉瓦の塊が見えた。

その瞬間すぐにそれが何か解り、高鳴る期待を押さえつつ引き返した。

IMG_9778.jpg

【九州鉄道大蔵線両国橋橋台(きゅうしゅうてつどうおおくらせんりょうごくばしきょうだい)】だ。

九州鉄道大蔵線は、1891年(明治24年)開業、1911年(明治44年)に廃止された歴史の短い路線だ。

海側に線路を敷設した場合に、海上の敵艦からの射撃で寸断される事を当時の陸軍が危惧した為、内陸側に設置されたが、のちに平行する九州電気軌道(後の西鉄)の開業や、現在の鹿児島本線が敷設された為に廃止となった。

100年以上前の路線なので、現存する遺構は多くは無いが、遺る物はどれもりっぱな遺構だ。

_MG_4053.jpg
煉瓦アーチが見事な【茶屋町橋梁(ちゃやまちきょうりょう)】

_MG_4082.jpg
現在は大蔵公園として整備されている【大蔵駅(おおくらえき)】跡。

_MG_4079_2013101222374415d.jpg
大蔵公園整備の際に見つかった【九銕用地杭】も保存されている。

_MG_4089.jpg
煉瓦アーチの上に家が建ち道路が走る【尾倉橋梁(おぐらきょうりょう)】




今回発掘されたのは、大蔵駅跡から東側(小倉側)の大蔵川[正式名称は板櫃"いたびつ"川]に架かる両国橋に遺る橋梁跡に関する物だ。

江戸の古くには豊前国と筑前国の国境であったことに因み、鉄道が開通し橋が架けられその名を「両国橋」としたと言う。

_MG_4075.jpg
2012年5月撮影

長らく道路の拡幅工事を行っているが、かつてより煉瓦橋台と橋脚は見る事が出来ていた。
今回の工事で「もしかしたら取り壊されるかも」と言う不安はあったが、どうやら一部が残されるらしく、その動向に注目していたのだ。
(Takaはその事が気になりすぎて変な悪夢もみたくらい(笑))



掘り起こされたのは西側(黒崎側)の橋台と思われる煉瓦のかたまり。

IMG_9761.jpg

重機の傍らに置かれたそれは二つ、コーンと比べて解るように結構大きい。

IMG_9764.jpg

【茶屋町橋梁】や【尾倉橋梁】と同じく、イギリス積みであることが解る。

IMG_9770.jpg

重機の隙間から煉瓦の端に切り石が見えた。

IMG_9757.jpg

東側(小倉側)に遺る橋台の端に見られる物と同じで、花崗岩の切り石だと思われる。
補強のためだろうか?

その橋台の形状から、【茶屋町橋梁】【尾倉橋梁】の煉瓦アーチとは異なり、ガーダー橋であったと思われるが、当時の写真はさすがに残ってはいないだろう。
(せめて図面でも見てみたいけどね)

IMG_9759.jpg

しばらく仮設橋が渡されていたが、撤去され東側(小倉側)の橋台跡も全容が見えた。

渡ってすぐに大蔵駅がある為か、複線構造になっているのが確認出来る(他の橋梁は単線)

しかし写真右手がごっそりとえぐられてしまっているのは残念だ。


その対岸にもあるはずの橋台だが、私の記憶では煉瓦橋台は遺っておらず、きれいにコンクリートブロックにて護岸工事がされていたと思うのだ。

と、考えると、今回の工事中護岸を剥がし掘り起こしていた際に見つかった、と言うのが自然だろう。

IMG_9752.jpg

大きく土が掘り返されている中に、煉瓦の塊が転がっているのが見える。

マンホールより川側だとは思うのだが・・・。

通りがかったのが土曜の18時頃だった為、作業者はおらず話を伺う事はできなかった。

しかしわざわざ持ち上げて地上に上げているのだから、何かしらのアクションが起こる事は期待したい。

IMG_9781.jpg

家族をコンビニの駐車場の車内に残し、長い時間そこに居てしまった。

もしかしたら次に見る時には無くなってしまうかもしれないと言う不安もあり、100年前のその煉瓦遺構を名残惜しく感じたのだ。

工事の邪魔者か、はたまた貴重な歴史遺産か。

それを判断するのは人それぞれだが、久方ぶりに太陽の陽を浴びた煉瓦橋台は、夕焼けの中でその赤色をより濃く見せ、ここに列車が走っていた遠い昔を静かに物語る。

IMG_9763.jpg


秋は日暮れが早い、とは言い訳しても、車に残る家族に冷たい目で迎えられたのは、言うまでもなく・・・(汗)


より大きな地図で 北九州近代化遺産 を表示

くろがね堅パンのお話

1901年(明治34年)、八幡製鉄所に火が入り、北九州が鉄の街として近代化が進む。

製鉄所構内で、その熱された鉄を取り扱う仕事が大変な物であった事は想像に難く無い。

それは今も昔もきっと変わらない重労働だ。

そんな中産まれた、今となっては隠れた『北九州名物』が今日のテーマだ。

IMG_9671.jpg

【くろがね堅パン(くろがねかたぱん)】だ。

正確な年代は不明だが、パッケージによると大正末期に誕生した様だ。1920年代くらいかな?

IMG_9673.jpg

この【くろがね堅パン】の特徴は何と言ってもその名の通り、くろがね、すなわち鉄の様な堅さにある。

”とか言っても食べ物なんだからたかが知れてるでしょ”と考えるあなた、甘いよ。

歯、折れるよ。

製鉄時の熱した鉄をローラーで圧延する方法と同じく、徹底的に水分を取り除き延ばし焼いたその”堅パン”は、まず前歯じゃ無理

奥歯で端から小さく割って食べるのが正解。

いや、正解かどうかは解らないが、少なくとも僕はそうしてきた(笑)

IMG_9675.jpg

過酷な労働条件の中働く製鉄マンの栄養補助食品として誕生したそれは、今も根強い人気だと言う。

元々は製鉄所が八幡に精米工場を建設した際、廃棄される胚芽に材料を加えて焼いた物が始まりらしい。
鉱滓煉瓦にしてもそうだが、当時のリサイクルやエコの意識は今の環境都市北九州、に通じるね。

水分を徹底的に排しているため、長期保存が利き、災害時の保存食としても有効。
また、登山やアウトドアの非常食としても一部のハイカーに人気があるらしい。

その堅さから”お子様の歯ガタメに・・・”と言う表記もあるが、むしろヤワな現代っ子にカツを入れてやれ、と思う。


・・・さて、気になるお味だが、実はその堅さとは裏腹にとても優しい甘さでおいしい。

パンと名がつくが、ビスケットやサブレの様な甘いお菓子だよ(堅いけど)

小さく砕いたそれを奥歯で噛み締めると、柔らかな甘みが口に広がり甘い香りが鼻を抜ける。

確かにその堅さから食べ続けるのは容易ではないが、後を引くおいしさはまさにふるさとの味。

ま、自分の子供時代でも「堅パン買って来たっちゃけど(笑)」位の”話のネタポジション”だったが(苦笑)

IMG_9679.jpg
(画像はイメージです)

しばらくは製鉄所内の購買部でだけ販売していたが、人気が高まるにつれ一般向けにも販売されるようになり、今に至る。

現在は株式会社スピナが製造しているが、市内のスーパーや駅の土産物としても販売していて、もはや隠れた北九州名菓だ。

ちなみに「スピナ」は英語の「スピナッチ(ほうれん草)」から。すなわち分豊富って事からの社名だ。いかにも八幡らしくて良い。
豆知識だ!

さらに歴史の古いとされる【くろがね羊羹】も忘れずに。

IMG_9680.jpg

高炉のシルエットが描かれたこの羊羹も、そもそもは従業員の為に1926年(大正15年)頃に作られたと言う。
甘い物が貴重だった頃に、上白糖を使用したこの甘い羊羹はたいへん喜ばれたそうだ。

重労働の作業者は食べやすいスティック状の羊羹をポケットに忍ばせ、仕事の合間に食べていたらしい。


この【くろがね堅パン】【くろがね羊羹】、最近は食べた事無い、なにより知らない、って子も多いらしい。

ぜひともその味を噛み締めて、北九州が歩んで来た歴史を振り返ってみて欲しい物だ。

北九州最古のトンネル【旧桜隧道】


北九州市門司区。

thumb_IMG_9394_1024.jpg

関門橋を望む丸山吉野町(まるやまよしのまち)は山の麓に位置する静かな集落だ。

片側2車線の県道25号線が新門司、下曽根方面へと続いている。

この道は関門トンネルの開通に伴い、北九州東部の主要道として整備された。

いくつかの峠道はトンネルとして整備され、車の走る以前の昔は、急な峠で交通の難所だったと言う。

丸山吉野町と春日町(かすがまち)を結ぶ【桜トンネル】もそうだ。

thumb_IMG_9385_1024.jpg

下り線である【桜隧道】は1956年(昭和31年)に開通し、2001年(平成13年)に現上り線である【桜トンネル】が開通する前までは片側1車線の対面通行だった。

IMG_9387.jpg
入口(丸山吉野町側)

IMG_9434.jpg
出口(春日町側

ちなみにトンネルの入口・出口はその道の起点に近い方が入口。
この場合丸山吉野町側が入口だよ。
豆知識だ!

今となっては片側2車線で別々のトンネルを潜り、快適に行き来が出来る。

その新しいトンネルの開通を見届け、隠居となった旧トンネルがある。

IMG_9392.jpg

それは住宅地を少し登って行くと見えて来る。

IMG_9409.jpg

【旧桜隧道(きゅうさくらずいどう)】だ。

現在の【桜隧道】と【桜トンネル】の初代にあたる為、ここでは【旧桜隧道】とする。

名を記す扁額は無いが、当時としては旧字の「櫻」だったかもしれないね。

竣工は1914年(大正3年)、まもなく生誕100年を迎えようとしているこのトンネルは、地図に載るトンネルとしては北九州市内最古だと言う。

その名の通り、沿道には桜の木もあり、春には美しい桜の花が目を楽しませてくれるだろう。

IMG_9415.jpg

IMG_9414.jpg

坑口は石積み、電線で隠れてはいるがアーチの頂上には要石もしっかりある。

丸山吉野町側の坑口は北側に位置する為、苔むしていてどっしりとした落ち着きのある表情をしている。

IMG_9413.jpg

内部は素掘りにコンクリート吹き付け。
1,5車線ほどだろうか、離合は難しそうだが、地域の生活道路として今も活用されているようで照明は明るく、旧トンネルにありがちな不気味さはない。

IMG_9376.jpg

山からの湧水が豊かなようで、両側に側溝がある。

IMG_9367.jpg

IMG_9369.jpg

近年の補修跡と思われるが、多少表情を変える。
路面はコンクリートで、恐らく近年かさ上げされている。

春日町側に抜けてみよう。

IMG_9362.jpg

石積みのポータルは両側とも同じデザインだが、こちらは南向きで日当りも良く、明るい印象だ。

IMG_9361.jpg

出てすぐ滝のように流れて来る水場がある。
やはりこの辺りは山からの湧き水が多いようで、工事も水に悩まされたのではないだろうか?

IMG_9411.jpg

その豊かな山水のおかげか、幅20cmはあろうかと言うでっかいカニがいた。
”モクズガニ”と思われるが、きっとこの地の主だろう。
挨拶をしてちょこっと遊んだ。

IMG_9363.jpg

苔むした北側が男性的ならば、こちらは白い肌の女性的な印象もあるね。




IMG_9421.jpg

このトンネルが掘られたのは旧門司市(丸山吉野町側)と東郷村(春日町側)の合併問題だったと言う。

直線距離自体は離れていなかった物の、桜峠は険しく、文字通り大きな壁となっていた。
しかしながらこの【桜隧道】が開通した事により交通の便が一気に良くなった。

1891年(明治24年)に門司駅(現門司港駅)が開業していた事も考えると、当時の人々の喜びは相当のものだったのではないだろうか?

1929年(昭和4年)、晴れて同地は合併し、門司市となりますます栄える事となる。

IMG_9379.jpg

現在の【桜隧道】が1956年(昭和31年)に開通し、メインストリートの一線を退くも、今なお地域の大切な道路として大事にされている【旧桜隧道】

これからも、少し小高い位置から門司港の発展を見守り続ける事だろう。


より大きな地図で 北九州近代化遺産 を表示

Facebookページ

ブログと連動したFacebookページを作成しました。

https://www.facebook.com/kitaqheritage

細道の先の【櫨ヶ峠隧道】

広大な山肌の平尾台を望む。

平尾台方面から1919年(大正8年)に完成した【春吉の眼鏡橋】に抜ける最短ルートがある。

県道28号線。
その入り口は非常に解りづらいが、日田彦山線石原町駅付近、国道322号の旧道添いから小さく「菅生の滝→」と書いている看板が目印だ。

IMG_1406.jpg
民家の入り口と思って通り過ぎちゃったぞ。

非常に狭く車一台がやっと通れる様な道だが、地元の人達には生活道路らしく、車の往来が極端に少ない訳ではない。
今回はバイクで行ったが、車じゃ離合困難。

最短ルートでカーナビがオススメしても、運転に自身の無い方は迂回が懸命。

IMG_1403.jpg

IMG_9297.jpg

針葉樹と竹林の少し苔むした狭い道を進むと、ほどなくしてトンネルの入り口が見えて来る。

IMG_1398.jpg

【櫨ヶ峠隧道(はぜがとうげずいどう)】だ。

難しい漢字だが、”ハゼ”の木の”櫨”

1931年(昭和6年)竣工、延長は意外と長い280mのこのトンネル、春吉地区から石原町へと抜ける訳だが、その建設された経緯は不明。

その頃にはすでに日田彦山線(当時は小倉鉄道添田線)は開通していたので、石原町駅へと抜けるルートとして整備されたのだろうか。

IMG_9300.jpg

立派な扁額にはしっかりと[道隧峠ヶ櫨]と記されている。

IMG_1399.jpg

コンクリートによる坑口だが、ブロックのアーチに要石、帯、アーチに沿った三角形状の模様など、装飾性もあって美しい。

両側共にデザインは同じ。

IMG_9303_201308191442544d5.jpg

内部は素掘りでコンクリートを吹き付けてあるが、平尾台も近い事で鍾乳洞にいるかの様な錯覚もある。
実際、ポタポタと水が落ちて来たりもするし。
補修中なのか、黒いネットが張ってあったよ。

しかし、恐らく心霊スポットとして来る様な人もいるのだろう、内部に落書きがあり残念。

IMG_9299_20130819144736924.jpg

春吉側の坑口脇には湧き水もあるが、そのまま飲むのはやめたほうがいいかも。

その水のせいか、バイクにお客さんが乗って来てたよ。

IMG_1404.jpg

危うく連れて帰る所だった(汗)

IMG_9305.jpg

照明も灯っており、だてにふた桁県道の肩書きがあるわけじゃないぞ。

IMG_9307.jpg

対向車が来たら焦る事うけあいのこの【櫨ヶ峠隧道】
戦時中は陸軍の弾薬庫として使われていたと言う。

それでも地元の人達にとっては無くてはならないトンネルなのだろう。

小さなトンネルは今日も大きな役割を持って、静かに人を迎えるのだ。


より大きな地図で 北九州近代化遺産 を表示
RSSリンクの表示
リンク
最新記事
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。